講師紹介

挫折を経験した生徒さんが『生まれてよかった』と気づくまで伴走したい

木原彩

  • 大阪校
  • 神戸大学発達科学部在籍
  • 担当科目:英語、数学、国語、化学

木原彩(きはら・あや。仮名)。神奈川県川崎市出身。趣味は読書と子どもと遊ぶこと。中学時代に部活の人間関係から不登校を経験。母の支えで高校に進学するも、次第に母とすれ違い、対人恐怖を抱く。「過去を克服したい」という理由で大学では心理学を専攻。大学在籍時に元不登校児を支援した経験から、人を直接援助する仕事をしたいと願う。大学卒業後に就職したが、「子どもと直接関わりたい」という思いが日ごとに高まり、子どもを支援するボランティアを始める。そこで改めて「子どもの願いをかなえるサポートをしたい」と思い、学び直しのため大学に編入学するとともに、キズキ共育塾へ。

記事に掲載されている情報は、掲載日時点のものです。

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部活に勉強に一生懸命だった中学生、それがあるきっかけで不登校に…

部活に勉強に一生懸命だった中学生、それがあるきっかけで不登校に…。

私が中学校での生活で思い出すのは、中3の秋から春にかけてのことです。

それまでは、勉強をがんばり、陸上部と駅伝部を掛け持ちし、充実した日々でした。

もちろん、成績が悪くて親に叱られることもありましたし、もともとのおっちょこちょいから先生に怒られることもありましたが、少ないながらも友達がいたので楽しく過ごしていました。

しかし、中3の最後の駅伝大会の目前、練習のしすぎで靭帯を損傷し、大会に出ることができなくなったのです。

自分自身の失意の中、部活のチームメイトからも「裏切り者」と叱責され、次第に学校に行けなくなってしまいました。

結局、卒業式にも出ることができず中学校を卒業しました。

母とのすれ違いや対人恐怖から自分はどう生きていいのかわからなかった

不登校の最中、ずっと寄り添ってくれたのは母親でした。

母がいたから不登校ながらも高校受験ができたのだと思っていますし、何とか高校に通うことができたのだと思います。

しかし、私の中3のときの怪我について、母は「娘ががんばりすぎたことが原因だ。私からプレッシャーをかけてはいけない」と考え、高校入学以降は私にあまり期待をかけてくれませんでした。

当時の母からは、私の現状や将来について、
「あやちゃん、がんばりすぎてもよくないし、これくらいでいいんじゃない?」
「大学も行けるところでいいからね」
など、消極的なアドバイスしか言ってもらえませんでした。

「私のためを思って」のことだとはわかっていたのですが、それまで私に寄り添ってくれた相談相手は母だけで、新たな相談相手も見つからない中、「私は今後はどのように生きていいかわからない」と悩み続けました。

また、不登校時に周りから浴びせられた心ない言葉によって「人が怖い」と感じ、自分の感情を殺した高校生活を送りました。

そんな状態でしたので、私は「過去」を乗り越えるために人の心を学びたいと思い、何とか受験勉強を続け、ある大学の心理学部に合格、進学しました。

大学生活を送る中で、母とも再びお互いがしっかり向き合えるようになりましたし、人を怖いと思うことも次第に減っていきました。

大学での日々と子どもとの出会い

大学での日々と子どもとの出会い

大学で心理学を学ぶかたわら、受験勉強の経験と心理学を活かすため、子どもたちに勉強を教えるアルバイトやボランティアを始めました。

何人か指導しましたが、一番思い出深いのは最初に指導した女の子でした。

その子は不登校経験がある高3の女の子で、優しすぎるその性格から、友人関係等で我慢をしてしまうことが多く、Noが言えない子でした。

彼女との出会いは春、ご両親の間に座るその子は、私がご両親と話している間中、ずっとうつむいていました。

勉強以外の話を振っても不安そうな顔で一言、二言しかしゃべることができず、彼女の不安な気持ちがひしひしと伝わってきました。

彼女の姿が不登校だった頃の自分と重なり、この子も幸せになってほしいと思いました。

ご両親の「多くは望みません。高校を卒業できればいいんです」という言葉からも、「この子やこの家族の力になりたい」と心から感じました。

彼女は長い不登校から学校に復帰したばかりで、学校の授業についていくことが困難でした。

また苦手な英語に関しては、「勉強したって、自分が理解できるようになるわけがない…」という言葉が口癖でした。

そのため、彼女が少しでも楽しく英語を勉強できるように、また授業の中で「自分はやればできる」という実感が持てるように授業計画をして授業に臨みました。

彼女が好きな漫画のセリフを英語の授業に織り込んだり、学校の授業はいったん忘れ、できるところまで戻って一つひとつ指導したりしてていきました。

そんな授業を続けるうちに、彼女の努力もあって、少しずつできることが増えていき、精神面でも変化がみえました。

それまではわからない問題だととすぐに答えを聞きたがっていた彼女が、私が答えを言おうとすると「待ってください。もう少し考えます」と考え抜く姿が見られるようになったのです。

そして、1桁台の点数だった学力テストが、最終的には60点台まで取れるようになりました。彼女が嬉しそうに「がんばってよかった」と言っていた姿も忘れられません。

勉強以外の成長もありました。

将来の話をすると、最初は「自分に仕事や自立なんてできっこないし」などと言っていたのですが、一緒に見に行った映画をきっかけに「美容師になりたい」という目標ができたのです。

この心境の変化には、勉強で自分に自信が持てたことも大きな影響があったのだと思います。

私と一緒に、彼女の行きつけの美容室に髪を切りに行き、担当の美容師さんに仕事の話などを質問しました。

熱心に質問する彼女の様子は以前の彼女とは全然違い、とてもイキイキとしていました。

美容師になるために、彼女は高校卒業後の進路を美容系の専門学校と決めました。

一緒に見学に行くうちに、彼女は具体的にどんな美容師になりたいか考えていました。

彼女がどんどん主体的に決めることができるようになる姿を眩しく思いながら見ていました。

あんなに苦手だった英語についても、苦手意識が徐々になくなったのか、最後の授業では「英語が話せる美容師になって、日本の人以外も綺麗にしたい」と言ってくれました。

その後彼女は美容系の専門学校に入学し、無事卒業しました。

「いつか○○ちゃんに私の髪切ってほしいな」と彼女に伝えた私の夢がかなう日もそう遠くないようにと感じています。

自信がなく、大学卒業後は直接子どもと関わる仕事は選べなかった

こうした指導の経験から、大学卒業後の職業について、最初は人を直接援助する仕事につきたいと考えていました。

しかし、考えれば考えるほど「私には無理だ」と感じました。

子どもと関わる仕事は責任がとても重く、その子の人生だけでなく、その家族やその子にとって大切な人の人生と関わることでもあります。

前述のとおり、私は母に対して葛藤を抱えていた時期もありました。

そんな私が「職業」として本格的に「人の援助」に取り組んだとして、私の関わりによって子どもやその子を取り巻く人々によい影響を与える自信がなかったのです。

迷いに迷った結果、私は教材出版社に就職しました。

教材の工夫は、前述の女の子を含め多くの子どもたちにしていた経験があります。

また教材出版社であれば、より多くの子どもによい影響を与えられるのではないかと考えたのです。

しかし、いざ企業に入ると、自分の無力さを実感しました。

私が担当したのは中学生の模試の編集でしたが、教科力、問題吟味能力、文章力、どれをとっても私はその企業の求める能力に遠く及ばず苦労しました。

しかし、模試の編集は失敗の許されない仕事。ミスが続き、その度に、「誰のためにもなれてない、申しわけない」という気持ちに押しつぶされそうになりました。

また、そんなときに、あるニュースで「子どもの貧困」という問題を知りました。「教材をつくっても、お金のある子どもたちにしか届けられないのではないか」と思い、ここでも自分の無力さを実感じました。

子どもの貧困について知りたい一心で、社会人をしながらボランティア

子どもの貧困について知りたい一心で、社会人をしながらボランティア

このまま、無力感のまま「教育に関わること」を終わらせたくない。子どもの貧困について知りたい。

そう思い、会社員として働きながら、ある学習支援のボランティアと関わりました。

そこで出会った子どもとの出会いを通して、本当の自分の願いに気がつきました。

それは、小学6年生の男の子。学習障害を伴い、深刻な学力遅滞を抱え、九九もままならない子でした。

彼は、「先生勉強を教えてください」と自分の気持ちを伝えてくれました。私は彼と3か月間関わり続けました。

最初の授業では、彼ができるようになりたいと願った通分の問題を、一つひとつ工程ごとにわけて指導しました。

集中力のなかなか続かない彼も、授業の最後には通分の問題ができるようになりました。

そのときの「僕、生まれてはじめてできた」という彼の言葉が今でも忘れられません。

勉強以外の面では、彼には、人が好きで他者を思いやれる優しいところ、とても素直でいつでもその場を明るくしようとしてくれるところなど、いいところがたくさんありました。

その反面、人ともっと関わりたいのに、関わった経験があまりないためどう関わっていいかわからず、一人でいることも多い子でした。

そのため私は、「七夕の短冊をボランティア教室の生徒さんがみんなで書く」というイベントを企画し、スタッフにも協力してもらいながら、彼がなんとか他の子と関われるように工夫しました。

他者と関わっているときの彼が本当に嬉しそうな顔をしていたのをみて、彼の願いにほんの少し寄り添えたのかなと感じました。

そんなとき、彼が「木原先生、学校の先生になってほしい」と私に伝えてくれました。

彼との一連の出来事を通じて、私は「子どもたち一人ひとりと向き合い、一人ひとりの願いをかなえるサポートをしたい」という自分の願いに気がついたのです。

もっと子どもについて知りたい、子どもにどう関わればいいか勉強したい。その一心で会社を辞め大学に編入学しました。

そして、勉強をしながら本気で子どもと向き合う場所がほしいと感じたため、キズキ共育塾の講師になりました。

キズキに来てくれる生徒さんが「ここに来てよかった」思えるように、前に進むためのサポートを受けて「生まれてきてよかった」と実感できるように、生徒さんと関わっていけたらなと思っています。

お悩みを抱えるあなたへ

ここまで読んでくださってありがとうございます。

私自身不登校をし、一度社会人になったのち、悩みや迷いを経て、大学に戻っています。

人より遅く、二度目の大学生になって、気づいたことがあります。

それは、「悩み、迷ったからこそ、同じように迷う人・悩む人の力になりたい」という気持ちです。

もしいま悩んでいたり、苦しんでいたり、もう一度大学に行きたかったり、自分がどう生きたらいいのかわからなかったりする方は、よければぜひキズキ共育塾にお越しください

私たちとの出会いを通して、あなたが将来に進むためのきっかけをつかんでくれたら嬉しいです。

一緒に悩んで、これからどう生きたいか考えるサポートや、一緒に歩んでいくサポートができたらと思っています。

保護者さまへ

ここまで読んでくださってありがとうございます。

大切なお子さまが不登校になることで、苦しさ虚しさを抱えてしまうこともあると思います。

私自身、担当した生徒さんが不登校で苦しんでいるとき、「生徒さんの力になれていないのではないか」と虚しさやもどかしさを抱えた時期もありました。

でも、たった一人でも自分を心配してくれる存在がいること。それは本当にかけがえのないことです。

気にかけてくれる存在のおかげで、お子さまは「自分は一人じゃない」と感じることができ、何かに挑戦する勇気を持つことができます。

私自身の経験からもそれは言えます。

保護者さまは、お子さまが迷う中でもどうか彼らを見守っていただけたら嬉しいです。

そして、見守る人が多ければ、お子さまは、より安心できます。

私たちも、保護者さまと同じく、お子さまを見守りたいと思っています。少しでも気になるようでしたら、お気軽にキズキ共育塾にご相談ください

※本文中の写真は、全てイメージです

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