「頑張れない」ということ

僕自身、2011年の下半期は、「もう倒れるかな」と思うほど頑張って働いた。

平均睡眠時間は3時間程度、朝寝て朝に起きる生活が続いた。

そのおかげで、起業から一年半の今では、心の底から意義があると思える事業で、生きていくには十分のお金を稼げるようになった。

でも一方で、「頑張れなかった」ことも、これまでの人生でたくさんあった。

特に、2006年のルーマニア時代、2009年の商社マン時代はひどかった。

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2005年、大学2年生の頃、僕はイスラエルとパレスチナで学生NGOの代表をしていた(といっても、先輩が設立した組織を引き継いだだけだが)。

イスラエルとパレスチナ、紛争下ではお互い交流する機会がなかなかない。

そのような状況にある学生たちを、第三国である日本に招致し、一か月の合宿生活を行った。

当時の活動は、多くのメディアで取り上げられ(残念ながら、いまの弊社の数倍のメディアに取り上げていただいていた)、外務省のホームページ上動画では、日本が行っている中東和平の信頼醸成事業の4つのうちの1つとして紹介していただいていくまでになった。

その秋、九州大学の学会での講演をきっかけに、「ルーマニアの研究所で働かないか」という誘いをもらった。

国際関係や開発についてのリサーチを行っているノルウェーの研究所の支部だった。

そして大学3年生になる2006年の春、学生NGOを後輩に引継ぎ、大学を休学してルーマニアに向かった。

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それは、僕にとって初めての海外生活だった。

イスラエル・パレスチナでの成功は僕に根拠のない自信を与えてくれていて、だから自分が何を成せるのか楽しみだった。

ルーマニアにいた頃の安田
ルーマニアにいた頃の安田

僕が住んでいたのは、首都ブカレストから電車で7時間のところにある田舎町で、日本人は僕と日本料理屋の店主だけだった。

日本人どころか、アジア人も一人しか見たことがなかった。

一方で研究所はアメリカ、イギリスなどからの研究者が多かった。

そこで僕は世界各地から平和活動に携わる若者向けのワークショップの企画やファンドレイズ、調査等のお手伝いをしていた。

彼ら研究者たちはよく、「イスラエル・パレスチナはこうあるべきだ」「バングラデシュはこう発展すべきだ」と語っていた。

でも、実際に現地に行ったことがある人はいなかったし、もちろん現地の言葉を話せる人もいなかった。

「本当はもっと現地の声を聞かなければ、いけないのではないか。そうでなければ、本当に彼らの助けになるような事業などできるわけがない」

でも当時の僕は、それらをはっきりと言い切れる度胸や英語力がなかった。

下手くそな英語で遠慮がちに伝えても、取り合ってもらうことができなかった。

悔しかった。
何かを成し遂げるまでは帰らないつもりだった。

けれども、孤独で苦しくて、どうにもできなくなっていた。

そして夏が終わる前に、僕は逃げるようにして日本に帰った。

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もう一つの挫折は、2009年新卒で商社に入った頃だった。

ルーマニアでの経験の後、「途上国の底辺に生きる人々の視点で世界を見たい」と思った僕は長期休みの度にバングラデシュの娼婦街に通うようになっていた。

2008年6月に大学を卒業した後はバングラデシュでの生活を本格化させた。

けれどもバングラデシュに通えば通うほど、自分が何をできるのか、何をすべきなのか、わからなくなっていた。

そんなあきらめの中で、それでも「発展途上国と関わっていたい」という思いから、何より新卒切符を捨てるのが怖かったから、総合商社に入ることにした。

リーマンショックの直後のことだった。

入社日には、希望に反して油田権益の投資の部署に配属が言い渡された。

当時の僕は泥臭く途上国をかけずり回りたかった。

その後で、自分が何をできるのか、何をすべきなのか考えたかった。

けれども油田権益の投資でエクセルと向かい合う日々は、それらと少し離れている気がした。

それに、扱う金額が大きすぎて、若手に決定権がなかったことも、天邪鬼の僕にはつらかった。

大企業に入った多くの人は、「まずは3年我慢」して、「人事部が決めた」配属先のビジネスのことをゆっくり知るように努力する。

でも、僕にはそれができなかった。普通の人が当たり前にできることなのに。

仕事が忙しかったわけでは決してない。
上司からのプレッシャーもなかった。

「やりたいことができない」
「自分の理想とする生き方ができない」

ただひたすら、くすぶっていた。とはいえ当時は独立する勇気もなかった。

そのうちに段々と、会社に足が向かなくなっていった。

普通の人が当たり前にできることができない自分が、情けなかった。

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ルーマニアでの悩みは、いつの間にか解決されていた。

英語は相変わらずうまくはないが、それでも朝から晩まで英語で議論するぐらいは特に問題ない。

仕事に関して言えば、その後勇気を出して起業したことで、全ては解決されていた。

今は人並みの給料をもらって、スタッフに給与を払って、楽しく生活している。

スーツは着ないし、満員電車には乗らない、「自分が正しい」と信じれられることを仕事にしている。

その分、毎日プレッシャーで胃がキリキリするけれども、それも意外に楽しい。

そう、つまり「人生はなんとかなる」のだ。

何かを成そうと思うのならば、徹底的な努力や我慢が必要だ。

ただ、その努力や我慢が「自分を苦しめている」次元まで到達したならば、「諦める」ことも選択肢にいれた方がいい。

「時間」の力は偉大で、いつか全てを癒してくれるときがくる。

それだけでなく、「時間」はその苦しみを、「物語」に変えてくれる。

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僕は、この二回の経験を通じて「人の弱さ」が分かるようになった。

12歳で家を出て生き抜いてきたことで、僕は自分のことを「誰よりも強い」と思い込んでいた。

でも実は、多くの人が当たり前にできることが僕にはできなくて、そこで初めて「弱さ」を理解した。

「頑張れない」人の気持ちが分かるからこそ、今の事業を起こせた。

そして何より、社会の中でつまずいてしまった人たちの気持ちが分かるようになってから、世界は豊かに見えるようになった。



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※2018年4月、安田の自伝本『暗闇でも走る 発達障害・うつ・ひきこもりだった僕が不登校・中退者の進学塾をつくった理由』が講談社から出版となりました。
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代表挨拶

監修 / キズキ代表 安田祐輔

やすだ・ゆうすけ。発達障害(ASD/ADHD)によるいじめ、転校、一家離散などを経て、不登校・偏差値30から学び直して20歳で国際基督教大学(ICU)入学。卒業後は新卒で総合商社へ入社するも、発達障害の特性も関連して、うつ病になり退職。その後、不登校などの方のための学習塾「キズキ共育塾」を設立。経歴や年齢を問わず、「もう一度勉強したい人」のために、完全個別指導を行う。また、不登校の子どものための家庭教師「キズキ家学」、発達障害やうつ病の方々のための就労移行支援事業所「キズキビジネスカレッジ」も運営。

【新著紹介】

『学校に居場所がないと感じる人のための 未来が変わる勉強法』
(2022年9月、KADOKAWA)
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KADOKAWA公式

【略歴】

2011年 キズキ共育塾開塾(2023年7月現在10校)
2015年 株式会社キズキ設立
2019年 キズキビジネスカレッジ開校(2022年7月現在4校)

【メディア出演(一部)】

2022年 NHK総合「日曜討論」(テーマ:「子ども・若者の声 社会や政治にどう届ける?」/野田聖子こども政策担当大臣などとともに)

共同監修 / キズキ相談担当 半村進

はんむら・すすむ。1982年、茨城県生まれ。東京大学文学部卒。
小学校時代から転校を繰り返し、運動ができないこと、アトピー性皮膚炎、独特の体形などから、いじめの対象になったり、学校に行きづらくなっていたことも。大学に入学してようやく安心できるかと思ったが、病気やメンタルの不調もあり、5年半ほど引きこもり生活を送る。30歳で「初めてのアルバイト」としてキズキ共育塾の講師となり、英語・世界史・国語などを担当。現在はキズキの社員として、不登校・引きこもり・中退・発達障害・社会人などの学び直し・進路・生活改善などについて、総計1,000名以上からの相談を実施。

【執筆記事・インタビューなど(一部)】

日本経済新聞 / 朝日新聞EduA / テレビ東京 / 不登校新聞 / 通信制高校ナビ

サイト運営 / キズキ

「もう一度学び直したい方」の勉強とメンタルを完全個別指導でサポートする学習塾。多様な生徒さんに対応(不登校・中退・引きこもりの当事者・経験者、通信制高校生・定時制高校生、勉強にブランクがある方、社会人、主婦・主夫、発達特性がある方など)。授業内容は、小学生レベルから難関大学受験レベルまで、希望や学力などに応じて柔軟に設定可能。トップページはこちら。2023年7月現在、全国に10校とオンライン校(全国対応)がある。

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