不良から浪人を経てICU受験(安田代表)
【名前】安田 祐輔(キズキグループ代表)
【大学】国際基督教大学卒
目次
いわゆる「いい子」から不良へ
小学生のとき、私はいわゆる「いい子」でした。
中学受験をさせられ、小6のときなどは塾に週6回も通い、夜中の3時まで勉強するということさえありました。
けれども勉強することに疑問を感じ始め、「なぜ私立の中学に行かねばならないのか」ということをいつも感じていました。
けれども周りの大人たちは「偏差値の高い大学へ行って、いい会社に入るため」という説得力のない答えしか用意できませんでした。
そうしたこともあり、このころから自分の人生が親の価値観によって規定されていくことに対し疑問を覚え始め、家を出て自分が今後どう生きていくかについて、じっくり考えて行きたいと思うようになりました。
ちょうど両親の離婚が決定したこともあり、僕は寮のある遠方の中学に入学したのです。
中学校に入学し「ようやく自由が謳歌できる」と喜んでいたら、今度待っていたのは学校側との戦いです。
学校側から難関大学に向けて勉強することを要請されました。
朝5時とかに「勉強しろ」と平気で起こされるし、テレビもマンガも禁止だし、更には男子校で女の子と接する機会がないと言う思春期の学生にとっては地獄のような生活でした。
結局ここでも自己の価値観をゆっくりと見つめるような場所はなく、さらに僕には基本的に社交性がないので寮内にあまり友達もできず、自分の居場所は見出せなかったので、中学校2年生のときに学校を辞めました。
中学生にして家を出て学校を辞めるという、大きな経験を二度もしてしまったことになります。
すでに親が離婚していたため、親権者である父と暮らす予定でしたが、「面倒を見きれない」とのことで、僕は父方の祖父母に引き取られました。
そして中学生の間は義務教育なので新しい中学に通わねばならず、祖父母の家の近くの公立中学校に通うこととなったのです。
私立中学校をやめるころには「いい会社に入るためにいい大学に行く」的な発想にかなり疑問を感じていたため、公立中学校に入ると「あえて勉強を放棄する」という選択をしました。
と言っても、途中までは「あえてする選択」だったのが、いつのまにか「ただ楽しい方に流されているだけ」と言った状況に陥っていたのも事実かもしれません。
また中学生と言う思春期の2年間を男子校で過ごした私にとって、周りに女の子がいる状況はあまりに新鮮でした。
それにガラの良くない地域の公立中学校にいる生徒はかなり新鮮でした。
夜中までコンビニでたむろすることを覚えたのもこのころです。
また高校時代、警察沙汰まで発展するモメごとを起こした暴走族の連中と知り合ったのもこの時期でした。
無気力かつ荒廃した高校生活の始まり
昔は、中学を卒業したら適当にフリーターにでもなるかと考えていました。
でも中3の半ばあたりから、なんとなく高校には行こうかなぁとは思い始めました。
学校の担任からは、地区で一番偏差値の低い県立高校を勧められたのですが、当時地元の暴走族とモメていた私自身としては面倒なことに巻き込まれなさそうな高校がよかったので、別の高校を受験することにしました。
それでもまぁ「高校落ちたら働けばいいや」などと軽い気持ちで、まったく受験勉強せず、過去問すらやらずに試験を受けましたが、なんとか合格することができました。
高校に入る時にはパーマをかけたりメッシュを入れたりして、周りの生徒にナメられないように気を遣っていました。
高校入学後もまた当然のごとく勉強など1分もせず、テストの点数はすべて1ケタ台でした。
大学へ進学する生徒はほとんどいないその高校で、1学期の成績表ではビリから10番を取ってしまいました。
このころ夢中になっていたのは車とバンドでしょうか。
バンドの方は高校の軽音楽部に入って活動していたのですが、途中からは単なる溜まり場と化していました。
家にも帰らず、学校にも行かず、勉強もせずにただただ無意味に高校生活を送っていました。
今あのころを振り返ってみると、何がしたくて生きていたのか、そして何を考えて生きていたのか、わからなくなります。
それはただただ時間だけが過ぎていくだけの3年間でした。
この期間は、全てにおいて無気力な時代でした。
高校1年生の夏に父が再婚し、再び父と暮らし始めるようになると、それはますますエスカレートします。
新しい“家族”の中で居場所を見つけられず、家にも帰らなくなりました。
朝まで駅で意味もなくたむろして女の子をナンパしてみたり、改造された単車を乗り回したり、早朝寝て起きてテレビをつけると「笑っていいとも」をやってる時間帯になっていて、結局学校には2、3日に1回ぐらいに昼からしか行かなくなってたりと、そんな生活を送っていました。
家にいる時はだいたい人を呼んで騒いでいました。
一人になることが怖かったのです。
また心の奥も荒廃しきっていました。
何かギスギスしたものが心の中でうごめいていました。
人と道でぶつかっただけで鼻を折る程のケンカに発展してしまったり(このせいで、いまでも鼻が少し曲がっています)、地元の暴走族とも仲が悪く、所謂“カンパ”の支払いをめぐって2年ぐらいもめたりしてました。
以前に書いた暴走族からカンパがまわってきたのですが、無視していたら目をつけられて学校や家の前で待ち伏せされたり、4対1(自分)でケンカになったりと、最終的には警察を巻き込んでの事件となりました。
(高校の担任が警察に連れてったのですが、結局警察には「お前の見た目(当時は金髪で肌を真っ黒に焼いてました)や日常生活が悪い」とあまり相手にしてもらえませんでした)。
荒廃した生活から抜け出す、初めの一歩
どうしようもない生活でした。
無気力で将来の希望など何もなく興味があることは女の子のことぐらいで、勉強はもちろんなんにもわからず、テストは全部赤点で成績はビリだし出席日数も全科目足りないし、停学はくらうし、社会のことなど何にも興味がないから日本の総理大臣が誰かも知らないという状態でした。
バンドやサーフィンに手を出してみても結局中途半端で、アルバイトでさえも高2までに8種類やったものの、どれも1ヶ月程度しか続かず、きっと自分はこのまま朽ち果てていくんだろうなぁと思っていました。
でもその一方でこのままでいいのだろうか?とも思っていました。
そして「生まれ変わりたい」と思っていました。
高2の終わりごろからだったと思います。
そのとき初めて大学進学という選択肢が頭に浮かびました。
こんな自分でも大学に行けば少しは変わることができるかもしれないと。
しかしそれでも目的もなく大学に行くことには抵抗がありました。
先に書いたように「目的もなく“いい”大学にいって“いい”会社に入ることが人生の幸せ」だとする親の価値観に反発したことが、小学校卒業後家を出て寮に入ったきっかけであり、「目的もなく大学に行く」ことはそのような自分の生き方を否定することになってしまうからです。
とは言え、努力して何かを学んだりすることによって自分を変えたいと思う気持ちは強く、唯一興味があった歴史を大学で学ぼうと思ったのです。
父に頼み込んで予備校にも行かせてもらいました。
またこのころ、自分を変えるためには社会との接点を持つことが必要だと感じ、毎朝、新聞を読むことにしました。
初めのうちは辞書を片手にわからない意味の言葉を調べながら読んでいました。
日本の新聞を、です。
当時の私には新聞すら難解な哲学書のようでした。
そんな感じで、高3のころから再び私は前を向いて歩き始めました。
自分の学力を考え、私立の3科目受験に絞って、英語・国語・日本史を勉強することに決めました。
それまでは「This is a pen. I go to school every day」程度の英語しか知らず、古文に辞書が存在することさえ知らなかったので、受験勉強の世界はある意味新鮮でした。
しかしそれでも急に真面目になれたわけではありません。
今までの遊び癖はなかなか抜けず、ともすればさぼりがちになってもいました。
これは大学で何を学んで将来何がしたいのかという具体的なヴィジョンがまだなかったせいもあると思います。
9.11同時多発テロに引き続き、アフガン空爆が起きたのはそんなころでした。
ある日、空爆で家が破壊され家族が殺されてしまった子供の特集をテレビで見てショックを受けたのです。
その子のおかれたあまりに悲惨な状況に、「何かがおかしい、なぜこんなことになったのか知りたい、そうしてこのような世界を変えるために何かをしたい」と考えたのです。
このとき具体的に「国際関係を学びたい、そのためには、必死で勉強して大学に行かねばならないのだ」と心の底から思うようになったのです。
そして、その日から毎日長時間にわたる勉強を始めました。
1月の半ばにはセンター試験がありました。
このときはまだ、受験勉強に本気になってまだ1ヶ月程度だったわけだったこともあり、英語の点数は半分以下、古文にいたっては1問しか正解しないという散々な結果に終わりました。
しかしそれでも勉強を続け、1ヶ月後の私立受験ではなんと某大学に合格することができました。
「こんな私でもやればできるんだ」と自信も出てきて、どうせなら浪人して本当に行きたい大学を目指すことに決めました。
色々と調べた結果、国際関係を学んで、国際機関で働くには、東京大学(東大)か国際基督教大学(ICU)がいいと決めました。
東大を受けるには社会は3科目も必要だし、それまでやったことのない数学や理科もやらなきゃいけない。
さらにICUの受験形式に向けた対策も行わなければいけない。
なのでそれからは、1日13時間勉強し1時間本を読む生活を続けること、そして時間の浪費を防ぐために一切の遊びを封じることを決意します。
そうしてわたしの浪人生活が始まりました。
努力をする、ということ
高校を卒業し、まず僕は全ての友人と連絡を絶ち、持てる時間の全てを勉強に捧げることを誓います。
そして祖父母の暮らす家に引っ越し、一部屋借りて、勉強のみに集中できる環境を整えました。
さらに父に予備校に通わせてくれるように頼みます。
私にとって難関大学に合格するということは、精神的に徹底して自分を追い詰めない限り到底できないことであるとわかっていました。
そして同時にそうすることで、自分は生まれ変われるのだと思ったのです。
また、東大とICUを目指すことに決めていたわけですが、このころ自分は漠然と「ICUに行くのではないか」と思っていました。
「後からなら何でも言える」と思われそうですが、現役のとき、身の程知らずながらICUを受験しまして、あのキャンパスをみた瞬間「自分はここに通うのだ」と思い込んでしまいました。
(試験に関してはやはり何にもわかりませんでしたが)まぁそれがようやく2年後に実現されたわけです。
しかし周りには、誰一人としてICUや東大といった大学に入った人はいませんでした。
周りの友人はだいたいフリーターか就職、専門学校でした。
ただ、一緒には暮らしてなかったのですが、私には全国でトップ5に入る進学校に通う3つ下の弟がいたので、いい予備校や勉強の仕方まで、たびたび呼び出して色々と教わることにしました。
そこで個人塾や大手予備校、東大専門塾を科目別に使い分けて、中学範囲から大学受験レベルまで一気に引き上げることを狙いました。
この頃の生活は本当にすさまじいものだったと思います。
毎日その日にやるべき勉強内容を考えて、その通りに実行できるように努力しました。
風呂の中や家から駅まで歩いている時間にいたるまで、徹底して勉強し続けました。
家から駅までの7、8分で「英単語のチェック」、風呂の中では「古典文法」を欠かさず勉強しました。
1週間に1時間程度しか人と話さなかったと思います。
どんなテレビが流行っているのか、どんな歌が流行っているのか、など全く知りませんでした。
このころの自分を突き動かしていたものは「あのころに戻りたくない、そして世の中のためになにかできないか」という一心でした。
同時に、学術的な本を読むように努力しました。
新聞と読書には1日のうち少なくとも合計1時間はかけるようになりました。
これらの本を読み漁ったことで自分の知識や読解力は増大しましたし、それは現代文や小論文の勉強に役立つものとなりましたが、同時に僕の受験勉強へのモチベーションを上げてくれるカンフル剤みたいなものでした。
これらの本を書いている学者のもとで好きなだけ勉強ができるという事実だけで、僕のモチベーションは上がりました。
そうやって必死で勉強しているうちに徐々に実力がつき、一浪目のセンター試験を迎えます。
センター英語は現役時の約90点から185点に、数学は因数分解もできなかったのが60点に、古文は1問しかできなかったのがほぼ満点にと、努力の甲斐あって東大の前期・後期試験ともに第一段階選抜を切り抜けました。
私立大学は予定通りICUを受験しました。
しかし、ICUや東大の二次試験に太刀打ち出来るほどの実力はまだついていなかったのです。
そうして二浪目がスタートしました。
二浪目は某予備校の本科生となりました。
また苦手であった数学は一浪目と同じように個人塾に通いました。
また一浪目にやり始めた地学があまりにつまらなかったので、前々から興味があった物理に転向しました。
秋ぐらいに少し怠けそうになった時期もありましたが、二浪目も自分を追い込み続けました。
ずっと乗っていた単車も売りました。
そのような努力の結果、最終的には東大模試で日本史は全国3位までとることができるようになっていました。
しかし二浪目のセンター試験では「もう浪人できない」という緊張感から数学、物理で計算ミスを続出させ、結果としてロースクール設立により定員減となった東大受験をあきらめざるを得なくなりました。
国立前期は一橋、後期試験では京都大学に出願し、ICU合格後は一橋よりICUに行きたかったため、後期の京都大学のみに向けて勉強しました。
しかし試験本番では2年間の疲れや京大とICUと迷っていたこともあり、落ちました。
ICU受験のことも少し話そうと思います。ICUの受験時は緊張のあまり体調を壊し、最悪のコンディションでした。
僕は二浪にも関わらずICU以外の私大をまともに受けてなかったので、プレッシャーが大きすぎたのです。
しかも1時限目の一般能力考査の途中にトイレに行きたくてたまらず、10問ほど空白のまま解答用紙を提出することとなってしまいました。
しかしその後奇跡が起きました。
この後の社会科学論文考査では僕の最も尊敬する学者である、E.W.Said(サイード)がかなりの割合で引用されていたのです。
もしかしたら、ICUが自分のことを呼んでいるんじゃないかと思ってしまいました。
問題もほぼパーフェクトにでき、気分よく人文科学論文考査に向かいます。
するとなんとこの考査においても、サイードが引用されていたのです。
気分が乗ったまま人文科学論文考査を終えます。
これもほぼパーフェクトな解答ができたと思います。
2年間にわたる読書の中で、大学受験レベルの文章は完全に理解できるようになっていたのです。
ICUを目指す上で「読書」というのは必須ではないかと思います。
ICUの4つの受験科目のうち、2つは「読解力」を問うているわけです。
しかし最後の英語は半分以上勘で埋めました(笑)。
ICUのリスニングの難度に関しては東大など他の大学とは比較にならないと思います。
1回しか読まれないのでかなりキツイです。
正直な話、英語があまりにできなかったので「落ちたかな」と思っていました。
でも考えてみたら、このキャンパスに3回も受験しにきているわけです。
「三度目の正直」が起こってもいいかなとも思ってました。
そして発表当日届いた紙に僕の受験番号はありました。
受験が終わったころ、髪が肩下まで伸びきっていました。
よく考えてみたら、もう1年近く髪を切っていなかったのです。
真っ黒に焼いていた肌も真っ白になっていました。
それは2年間室内にこもって勉強し続けた結果でした。
そして同時に自分は確実に「変われた」という確信もありました。
人より2年遅れて受験生活が終わったわけですが、「遊びたい」という衝動は全くおきませんでした。
はやく勉強を重ねて2年間の遅れを取り戻さなければという思いで一杯でした。
私は大学受験において、他の誰よりも勉強したという自負を持っています。
そしてその自負、つまり自分は目標に向けて努力をできたということは、今の私を支える1つの要素であることに間違いありません。
この2年間は本当にギリギリの戦いでしたが、真摯に勉強に取り組んだことにより様々なものが私の中に残りました。
高校時代、私は自分のことを何の努力もできない人間のクズのように思っていましたが、今では自分のことを誇らしく思えます。
私が最後に伝えたいことは、「今まで」の自分がどうであれ必死に努力すればなんとかなるのかもしれないということです。
自分に目標がありそれを叶えるために努力しなければいけないのならば、それをしてみる価値はあるということです。
努力すればなんでも叶うわけではないですし、ときには無駄な努力に終わることもあるでしょう。
しかしそれでも、そうしなければどんな目標も達成することはできないのです。
これを見ている受験生の皆さんも、努力だけは誰よりもやる気で勉強に臨んでください。
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