不登校、高校中退、ひきこもり。そんな状況にいると、「将来はもうない」という不安に悩み続けることでしょう。

「もし大学に合格しても、ちゃんと卒業できるの?就職できるの?」という不安もあるでしょう。

高校不登校、中退、5年間のひきこもりを経験した山本幹太さんは、キズキ共育塾で学び直して青山学院大学法学部に合格しました。

大学は4年間で卒業し、ビズリーチに就職。キズキ共育塾を卒業して9年が経った2025年現在は、自ら起業して社長になっています。

ひきこもり時代には漢字どころかカタカナも書けなくなっていた山本さん。そんな状態からでも、学び直し、大学合格、そして社会での活躍へとつながっていきました。

山本さんの体験談は、「全ての人に可能性がある」ことの実例です。ぜひ、「次の一歩」を考えるきっかけとしてご覧ください。

このページは、全4回の第1回です。山本さんが不登校・ひきこもりになった経緯、不登校・ひきこもりになってからの生活、そしてキズキ共育塾に入会するまでの話をお伝えします。

勉強もサッカーも完璧——“順風満帆”だった中学時代

小中学校は、地元の公立に通っていました。サッカーが好きで、部活もサッカー部。生活のほぼ全てがサッカーで埋まっていました。

あえて自分を持ち上げると、中学生のときは、優等生でした。公立中学ながら「強いサッカー部」のレギュラーで、通知表でオール5を取ることもありました。勉強は苦じゃなかったですね。学級委員もやりました。イケイケな状態でした。

「高校では、勉強もサッカーも両方やりたい」と思って、それが叶いそうな、神奈川県の某公立高校を受験することにしました。

当時その高校のサッカー部は、神奈川県のトップクラスでした。監督は元日本代表選手、講師陣も元Jリーガーたち。全員、その高校のOBです。中学生の神奈川県選抜の選手たちが集まっていました。サッカー部員は全学年で120人くらいいました。

部活を引退するくらいの時期から、高校受験に向けて塾の利用を始めました。

高校合格。競争が激しいサッカー部に適応できず、ひきこもりに

志望校に合格して、サッカー部にも入部しました。そして僕は、高校で頑張りすぎたことがきっかけでひきこもりになりました。

サッカー部は、部員同士の競争が激しい中で、本当に朝から晩までサッカーをやっていました。

そんな環境で頑張り続けることで精神的な負担が溜まり続けていたようで、次第に、グラウンドの近くに行くと足がすくんだり、お腹が痛くなったりするようになりました。

結局僕の調子は悪くなり続けて、高校1年の1月に、1週間くらい登校できなくなりました。その後は登校と欠席を繰り返して、1年生のうちに、完全に行けなくなりました。

そしてすぐに、ひきこもりになったんです。

5年間のひきこもり——“あきらめない気持ち”と“動けない現実”

その後僕は、5年間ほどひきこもりを続けます。(先に言うと、後半の2年間はキズキ共育塾に入会していました。ただ、キズキ共育塾以外の外出はほぼなしで、キズキ共育塾を休むことも多々あったので、自認としては「ひきこもりのまま」でした。)

ひきこもり中には、何度も何度も気持ちが変化しました。自暴自棄になったこともありました。

最初の1〜2年は、同い年の人たちは周りが高校に通っているということもあって、「脱却しないと」という焦りが特に強かったですね。3〜4年目のときは、「今は無理だ」「でも、いつかは脱却しよう」という感じでした。

ひきこもり中は、言葉が出ない、字が書けない、生きているのか死んでいるのかわからない

ひきこもっているときは、基本的には自室にいました。

典型的なひきこもりの生活を送っている時期もありましたね。自分のベッドからも出なくて、24時間中20時間くらい寝ていました。夜中の2時くらいに起きて朝の6時くらいに寝るようなサイクルです。

特につらかった時期には、家族とも半年に1回喋るかどうか。ただ、話そうと思ってもうまく話せないんです。喋りたいことが喉の辺りまで出てくるんですけど、そこで止まる感覚がありました。呂律(ろれつ)も全然回らないんですよね。

文字も、ひらがな以外全部忘れました。漢字どころかカタカナも。読めはしますけど、書けないんです。

記憶も30秒くらいしか続きませんでしたね。本を読んでも映画を見ても、自分が何を考えていたのかも、すぐにわからなくなっていました。

自分が生きているのか死んでいるのかがわからないくらいに、追い詰められていました。

「ひきこもりから早稲田大学に進学した人」のブログに出会ったことが転機になる

ひきこもり始めて3年目のときには、同級生はみんな大学生になっていました。僕は、「今からの大学進学は無理だから、中卒のまま就職するしかないな」と思っていました。また、「すぐの脱却は難しそうだな」とも思っていました。

そんな中、転機がありました。「元ひきこもりの早稲田大学生が自身のキャンパスライフを書いている面白いブログ」を、母が紹介してくれたんです。

そのブログを読んで、「元ひきこもりなのに、こんな充実したキャンパスライフを送れるんだ」と衝撃を受けました。

充実と言っても、特別なことをしているわけではなく、授業、サークル、留学など、普通と言えば普通のキャンパスライフです。

でも僕は、その“普通”にとてもワクワクしました。「こんな人がいるなら、今の僕の延長線上にも、こんなキャンパスライフがあるのかも」と希望を感じられたんです。

そのブログには、「ひきこもりから大学受験に受かるために、こういうことをした」という実践的なことも書かれていました。具体的な時間軸のプロセス、やるべきこと、参考書などです。それもあって、「キャンパスライフへの道が開かれた」と思いました。

特にやることもないので、全記事を、20周、30周は読みました。

このブログを知ってからは、「ひきこもりから脱却しなきゃ」というmust思考だったのが、「キャンパスライフを送ってみたい」という、will思考やwant思考、つまりポジティブな思考へと変化していきました。

実際に、行動も「朝起きたらカーテン開けてみようかな」など、だんだんポジティブになっていきました(残念ながら、そのブログは今は削除されています)。

キズキで面談。「この人たちなら受け止めてくれる」という安心感

実は、そのブログにキズキ共育塾 のことが書いてあって、それを見た母がキズキ共育塾を勧めてくれました。それが、キズキ共育塾との出会いでした。

ひきこもり始めて3年目、18歳か19歳のときです。

面談で話したキズキ共育塾のスタッフさんは、男性と女性が一人ずつでした。そして偶然にも、男性は僕と、女性は母と、下の名前が漢字まで一緒だったんです。それで緊張がちょっと緩みました。

面談中、僕はあんまり喋れませんでした。ただ、話を聞く中で、「僕と同じような境遇の人が、この世に少なからずいるんだ」ということを実感することができました。

また、表情や言葉の選び方からも「この人たちならなんでも受け止めてくれるんだろうな」というのが伝わってきました。安心感がめちゃくちゃありました。「ここなら、通えるかも」と思えました。

キズキに入会。横浜から代々木に通うのは大冒険

キズキ共育塾には、面談後すぐに入会しました。ただ、最初は勉強の授業は利用しませんでした。当時のキズキがやっていた「課外活動」というものにだけ参加したんです(※1)。

みんなで昭和記念公園(東京都立川市・昭島市)に行くとか、ゴミ拾いをするとか、そういうものですね。ひきこもりが3年続いて、キズキ共育塾以外の外出もなかったので、この活動だけでもきつかったですね。

入会から数か月は、そのように外に出る練習をしていました。僕は神奈川県横浜市に住んでいて、キズキ共育塾の校舎は東京都渋谷区の代々木駅近くです(※2)。

横浜から代々木って、結構遠いですよね。電車に乗ってる時間だけでも30分を超えています。当時の僕にとっては、大冒険でした。代々木に行くたびに、母親からめちゃくちゃ褒められました。「幹ちゃん、代々木に行けるだけでもすごい!」と。

体力的な面では、家ではずっと寝ているので背筋がほぼ0で、椅子にも座れず、立っている方が楽な状態でした。ひきこもる前には、周りから「体力お化け」と言われるくらい体力があったので、それがまだ少し残っていて、なんとか外出できたのかなと思います。

精神的な面では、家から出るだけでもきつかったです。当時はすごく「周りから見られている」という感覚がありました。電車に乗っても、誰も自分のことを見ている・知っているわけがないのに、「ひきこもりがいるよ」みたいにあざわらっているように思ったんですよね。なるべく体を小さくして、絶対に下を向いて、誰にも視線を合わせないようにしていました。

体力的にも精神的にもきつかったのに行けた理由は…「行ってみたら、なんとか行けた」という感じでしょうか。

※1:2025年現在、課外活動は実施していません。
※2:当時、キズキ共育塾の校舎は代々木校のみでした。2025年現在、神奈川県には横浜校と武蔵小杉校があります。完全オンラインでの受講も可能です。

このページは、全4回の第1回です。

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