15年間のニート後に大学入学、就職。ニートは「自己責任」ではありません
キズキ共育塾・講師の町田和弥(まちだ・かずや)です。
このコラムを読んでいるあなたは、今ニートをしているのかもしれませんね。
「ニートをやめて仕事をしたいな…でもどうすればいいんだろう」
「自分でもなんとかしたいけど、生活を変える自信がない…」
そんなふうにお悩みではありませんか?
今回ご紹介する飯田真祐(いいだ・しんすけ)さんは、高校卒業から15年間のニート生活の後に大学入学・卒業、そしてアルバイトを開始して今は正社員(キズキ共育塾の講師)として働いています。
そんな飯田さんに、どのようなニート生活を過ごし、そしてニートでなくなったのか、本人にお話を聴きながらご紹介します。
あなたの「ニートからの次の一歩」の参考になれば幸いです。
僕はどのようにしてニートになったのか?〜スノーボーダーとして10年間のニート生活〜
町田:飯田先生はどんな子どもだったの??
飯田:中学校時代は、いじめられたり、親が離婚したりと、いやなことが重なった時期でした。
高校時代は、一緒に住んでいた母親が再婚して、夫婦共働きだったので家にはほぼ僕と姉しかいなくて、自由な時期でした。
自由とは言え、何をすればよいかわからかったし、同時に何もできないと思っていました。
無気力でしたし、なんの才能もないと思っていましたから…。
だから、勉強にも身が入らなくて、高校2年のときに留年しています。
町田:それで、いつからどうしてニートになったの??
飯田:ニートになったことと高校留年は直接の関係はないんですけど、きっかけは留年後の高3の時期にありました。
僕より1年先に高校を卒業した「元々の同級生」と高3の僕は、普通に一緒に遊んでいたんです。
ある日、彼らにスノーボードに誘われて、いやいや参加したんですよ。
でも行ってみたら、うまく滑れなかったのが悔やしくて悔やしくて…「また、行こう!」ってなったんです。
で、2度目のスノーボードでは、ちょっと滑れたんです!!
今度はそれがすごく楽しくて「毎週スノボ行こう!」と思い、実際に行くようになりました。
実は、「高校卒業後は建築系の専門学校に通おう」と思って、学費のためにバイトをしてお金を貯めてたんです。
でもスノボが楽しすぎて、貯めたお金をスノボに全部使っちゃったんです(笑)
町田:それは思い切ったね。
飯田:そうなんです。とあるスノーボード店に頻繁に通うようになっていて、そのお店でスノボのプロを目指している人たちに出会ったんです。
彼らの生き方を見ているうちに、「こういう生き方いいな!」「楽しいな!」って、初めて心から思えて、いつの間にかスノボにお金をつぎ込んでいました(笑)
それがニート生活の始まりですね。
こうして、高校卒業からの10年間、飯田先生は、生活のことは家族に任せきりにして、仕事も勉強もしないニートとして、アマチュアのスノーボーダー生活をしていたのでした。
当時の飯田先生は「このままでいいのか?」、「家族に悪いな…」「仕事を始めた方がいいのか…」という罪悪感を持つ一方、スノーボードに打ち込める充実感を覚えていたとのことです。
偶然見たテレビ番組をきっかけに大学受験を目指すも、再び5年間の実質ニート生活
町田:アマチュアのスノーボーダーとして、何年間ニート生活をしていたの?
飯田:10年かな…
町田:10年間の中で、何か自分自身に変化はあった?
飯田:スノボについて言えば、「滑る」以外にも、板をデザインしたり、映像作品を撮影したりもしていました。
でも、本格的な「仕事」ではありませんでしたね。
そして、脱臼癖がついちゃって、なかなか治らなかったんで、ニート10年目の年に手術をしたんです。
入院中は暇だったので、もともと興味があった心理学や株の勉強をしようと思って、関連する本を読むようになりました。
特に株については、その後、証券外務員の資格を取りましたし、株式投資にハマっていた時期もありました。
町田:株は儲かったの?
飯田:元手が20万円で、プラマイゼロでしたね(笑)
「あいもかわらず、俺ってだめだなあ」って思っていました。
町田:病院で手術した後は、「脱臼癖が治って、これでもう一度スノーボードに集中できる」と思ったの?
飯田:いや、この時期には、いよいよ「スノボを仕事にすることはできないな…。でも、何をしよう…」と悩んでいました。
そんなある日、家でゴロゴロしながら「素数の謎にせまる」だったかなあ…そういうタイトルのテレビ番組を見ていたんです。
その番組の中で、数学者と物理学者が一緒に休憩所でコーヒーを飲みながら会話する場面がありました。
数学者が自分が研究している数式について物理学者に話すと、物理学者が「僕も同じ数式を研究していますよ!」と答えて、会話が盛り上がっていたんです。
それが、「奇跡だ!」と思えて感動したんです。
つまり、僕が興味のある心理学、スノボの板のデザイン・映像作品、株など、一見バラバラのものが、もしかしたら一つに繋がるかもしれないと思ったんです。
僕も「奇跡」を起こしたいって。
町田:で、その後どうしたの?
飯田:そのとき28歳だったんですが、奇跡を起こすために「大学に行こう!」と思いました。
でもそこから2年間は塾にも行かず、受験は失敗でした。
3年目は大手予備校に通って、東京都内の中堅私立大学に合格しました。
そこで、もう1年がんばればもっと「上の大学」に受かるかもと調子に乗ったものの、4年目は勉強をさぼって、また受験失敗…。
4年間続いた受験生活と言えど、大半は勉強していない、実質ニート状態でした。
5年目は、気持ちを変えてフィリピン辺りに留学しながら勉強しようかなって思ってたんですが、留学の手続きを始めようとした矢先に、東日本大震災が起きたんです。
そこで留学はやめて、被災地にボランティアに行きました。
飯田先生は、東日本大震災をきっかけに、被災地の岩手へボランティアに行きました。
ボランティア活動で出会った一人の大学教授が彼の人生を大きく変えていきます。
生活を家族に頼りっきりのニートだった飯田先生が段階的にニートから脱出していく過程を見ていきましょう…。
偶然出会った心理学者のおかげでモチベーションアップ。大学に合格し、ニートではなくなる
町田:ボランティア活動はどうして行こうと思ったの?
飯田:自分でもよくわかりませんが、自然と体が動いていました。
僕が入った「チーム」はおよそ20人で、活動場所は岩手県の大槌町でした。
最初の自己紹介では、ちょっと恥ずかしかったですね。だって、アラサーのニート受験生だもん(笑)。「そんなこと思ってる場合じゃない」ってのはもちろんわかってましたけど、それでも。
で、ボランティアの内容は今回の話に関係ないので省略しますが、「チーム」のメンバーに、ある大学の心理学の教授がいたんですよ!
1日のボランティアが終わった後に、その先生に心理学のいろんなことを教えてもらいました。
町田:ボランティアだけでも疲れるだろうに、バイタリティあるね。
飯田:最終的には、その教授から「そんなに興味があるなら、大学に来て僕の授業を受けていいよ」と言われました。
嬉しくて、帰京後は教授の研究室に毎日通い詰めていました。無料で(笑)
いま思えば、周りの学生からは「アイツ誰?」と思われていたかもしれません(笑)
町田:受験勉強は続けていたの?
飯田:研究室に通うようになって、生活リズムもよくなって、勉強のモチベーションも上がって、5年目にして受験勉強に一番集中できました。
そして、慶應義塾大学の総合政策学部(SFC)に合格できたんです!
ようやくここで、15年ぶりにニートではなくなりました。
町田:大学に合格して何か変わった?
飯田:まずは、リア充になろうと思って、フェイスブックを始めました(笑)
町田:勉強以外の、例えばサークル活動みたいなこともしたの?
飯田:スノボのサークルに入りました。
10年間やっていたので、「すごいでしょ!」的な存在になろうと思っていたんですけど、サークルのみんなも結構うまくて…俺って平凡なんだなって(笑)
33歳のおじさんでも、みんな仲良くしてくれたので、そこは嬉しかったですね。
勉強もサークルも、33歳からの大学生活はエンジョイできましたよ。
町田:大学では、心理学、スノボ、株などの興味がある分野をつなげることができた?つまり「奇跡」を起こすことができた?
飯田:それが、実際に大学の講義を受けてみると、不思議なことに興味が変わっていったんですよね。
飯田先生は、大学生活に好きなことがたくさんできるという期待を胸に、念願の大学に入学しました。
彼は大学に入学して、興味が変化したという。その変化の要因とは何でしょうか?
大学で生じた興味の変化が、彼を就職へといざなっていきます。
その変化の過程の中に、ニート脱出の手がかりがありました。
次は、彼のニートという世界を押し広げた、その変化の過程を見ていきましょう…。
大学で学ぶうちに、ニートをしていたことへの罪悪感が消えていった。そして就職へ――
町田:大学でどんなことに興味が変わったの?
飯田:社会学と歴史学に興味を持つようになりました。
具体的に言うと諸外国の社会保険制度です。
学ぶうちに、日本はニートを生み出しやすい社会なんだとわかりました。
そこで、「ニートで申しわけないな」とモヤモヤしていた気持ちがすっきり晴れたんです。
町田:諸外国の社会保険制度って例えばどんな感じなの?
飯田:例えば、北欧の国々は税金がとても高いです。
その分、大学の授業料が無料だったり、就労支援が充実していたりするので、ドロップアウトした人を国全体で支援していこうという環境が整っています。
逆に、イタリア、スペイン、日本などの国々は、社会保障が企業や家族に紐づいています。
そうした国では、企業や家族から一度ドロップアウトした個人は、北欧の国々と比べて手厚い支援が受けられないのが現状です(その分、北欧よりも税金が安いのですが)。
また、イタリア人や日本人は「お母さんのご飯がおいしい」とよく言いますが、これは「個人が実家に頼っていること」の一つの表れでもあります。
一方で、住宅支援がしっかりしている国では、一人暮らしに必要な家賃の心配がないので、子どもが家族から自立しやすいわけです。
だから、それらの国では「お母さんのご飯がおいしい」と聞かない傾向があります。
町田:飯田先生、急に真面目に、熱くなりましたね(笑)
飯田:僕のアイデンティティーを決めるものですからね(笑)
大学で諸外国の社会保険制度を学んだことで、「人がニートになるのは、個人の責任だけじゃないんだ」と思えたんです。
…もちろん、だからと言って「自分がニートになったのは、全て国のせいだ」とは思ってないですよ(笑)。
町田:ニートになったのはすべて飯田先生個人の責任だと思っていたけれど、勉強をしたことによって、気が楽になったわけですね。
飯田:そうなんですよ。ニートでいたことに対しての罪悪感や引け目がなくなったわけです。
そして、自分のことを肯定して、将来について積極的に考えられるようになりました。
大学卒業後は大学院にも行きたかったのですが、現実的にお金がなかったので、「よし、仕事をしよう!」と思いました。
町田:仕事はどうやって探したの?
飯田:実は、自分が「ニートからの学び直し」の情報を集めていた関係で、キズキ共育塾の存在は前から知っていて、フェイスブックもフォローしていたんです。
で、ちょうどタイミングよく、「講師アルバイトの採用説明会を実施する」と投稿がありました。
「自分のニート人生が活かせる仕事かもしれない」と思って説明会に参加したんです。
町田:説明会に参加して、また実際に働いてみて、キズキ共育塾のことをどう思う?
飯田:自分の居場所だと思います!
自分はマイノリティーだと思っていたけれど、同じような悩みや経験を持っている生徒さんや講師もたくさんいて、そういう人たちに出会えたら素直に嬉しくなってしまって…
自己肯定感というやつですかね。
自分の人生も共感してもらえて、相手の気持ちにも共感できます。
自分の経験や性格がキズキ共育塾に合っていたということですよね。
今は正社員講師としてキズキ共育塾で働いています。
キズキ共育塾では、ありのままの自分で、生徒さん個人にも社会にも役に立っていると実感できる仕事ができています。
大学で社会保障制度を学んだ飯田先生。
諸外国のことや歴史的なことを知ることで、「今の日本の価値観」にとらわれて苦しんでいた自分に気がつきました。
よい意味でニートという現状に開き直り、自然と次の一歩を踏み出そうとしている自分がいたそうです。
そんなニート大先輩の飯田先生が、今ニートで悩んでいるあなたへ、伝えたい言葉があります。
今ニートで悩んでいるあなたへ
町田:最後に、ニートで悩んでいる人たちへメッセージをお願いします。
飯田:いろいろな人、価値観、学問に出会って思うのは、
「今ニートでいることに、罪悪感を持たないで。思いつめないで。悩みすぎないで」
ということです。
先ほども言いましたが、「ある個人がニートでいることは、その人だけの責任ではない」からです。
全てを他人のせいにするというわけではもちろんありませんが、「自分が悪いからニートなんだ」という思考から抜け出せると、一歩踏み出せるようになると思います。
また、僕は、「たまたま見ていたテレビ番組」、「たまたま出会った心理学の先生」など、偶然のおかげで人生がよい方に変わりました。
そういう「偶然のきっかけ」も、意識してみると、意外と身近に存在すると思いますよ。
町田:飯田先生、貴重なお話をありがとうございました!
飯田先生の人生を振り返ります。
中学ではいじめられ、高校では両親の離婚を経験し、その影響もあって勉強に身が入らず留年。
高3からは友達に誘われて何となくスノーボードを始め、10年間熱中…。
たまたま見たテレビ番組をきっかけに大学受験を目指し、偶然出会った心理学者のおかげでモチベーションが上がり、5年間の浪人生活を経て大学に合格。
15年間のニート生活に終止符を打ち、大学生活で得たものは、各国の社会保障制度という新たな興味。
その興味を大学で深く学んだことで、自分がニートになったのは、自分だけのせいではなかったのだと気がつきました。
すると、社会に一歩踏み出そうとしていた自分がいたのです。
そして40歳になった飯田先生は、キズキ共育塾という居場所を見つけ、毎日充実して仕事をしています。
今あなたは、ニートであることを自己責任として罪悪感を覚えていませんか?
繰り返しますが、あなたがニートになったのは、あなただけの責任ではありません。
そして、ちょっとしたきっかけで、人生はよい方に変わっていきます。
このコラムが、飯田先生の物語が、あなたの人生をちょっとでもいい方に変えるきっかけになることを願っています。
文中の写真は、町田・飯田が写っているもの以外はイメージです。
2018年6月6日掲載。
監修キズキ代表 安田祐輔
やすだ・ゆうすけ。発達障害(ASD/ADHD)によるいじめ、転校、一家離散などを経て、偏差値30から学び直して20歳で国際基督教大学(ICU)入学。卒業後は新卒で総合商社へ入社するも、発達障害の特性も関連して、うつ病になり退職。その後、不登校などの方のための学習塾「キズキ共育塾」を設立。経歴や年齢を問わず、「もう一度勉強したい人」のために、完全個別指導を行う。また、不登校の子どものための家庭教師「キズキ家学」、発達障害やうつ病の方々のための「キズキビジネスカレッジ」も運営。
【略歴】
2011年 キズキ共育塾開塾(2022年7月現在9校)
2015年 株式会社キズキ設立
2019年 キズキビジネスカレッジ開校(2022年7月現在4校)
【著書など(一部)】
『暗闇でも走る(講談社)』『ちょっとしたことでうまくいく 発達障害の人が上手に勉強するための本(翔泳社)』
日経新聞インタビュー『働けたのは4カ月 発達障害の僕がやり直せた理由』
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