青年海外協力隊の経験から、ビジネスを通じて社会にインパクトを与える支援をしたい


樺浩美
広島大学教育学部卒業
キズキ共育塾大阪校 教室長

樺浩美(かんば・ひろみ)。発展途上国支援に興味があったが、「自分には無理」との思いから「なんとなく」教員を目指す。事務的な不備からフリーターになり、その生活を通じて価値観を変える。「本当にやりたいこと」であった途上国支援を行うため、青年海外協力隊としてマーシャル諸島へ赴任。任期終了後、「社会にインパクトを与え、ビジネスの視点を大事にする支援」を行うため、キズキへ。

発展途上国支援に興味があったが、「自分には無理だ」と思っていた


中学2年生のときから、発展途上国に興味を持っていました。

きっかけは、生徒会の委員長として書き損じハガキの寄付活動を始めたことです。

集めたハガキを換金し、発展途上国の3人の子どもの入学金にすることができました。

その後、その子どもたちの顔写真が送られてきたときは、本当に嬉しかったです。

途上国でたくましく生きる同世代の子たちの姿に想いを馳せ、途上国支援への関心がますます強まりました。

けれども、私には自信がありませんでした。

「途上国支援に関わりたい」と思うと同時に、「自分は国際社会を変えるような人間にはなれない」とも思っていたのです。

相反する思いの折衷案として、「自分が国際社会に携わるのではなく、教員として、自分の代わりによりよい未来をつくっていく人材を育てたい」と考えるに至り、大学は教育学部に進学しました。

途上国支援とは別に、「『なんとなく』教員になりたいな」と思っていたことも、その選択を後押ししました。

とは言え、大学入学後も、しばらくの間は「本当は自分が直接関わりたいな。国際系の学部に行きたいな」と後悔していました。

大学卒業後、フリーターに。初めて「王道コース」から外れるも、「やりたいことを貫こう」と思うきっかけに


そんな感じで、大学時代までの私は、頭ではいろいろ考えているものの、なかなか実行に移せないような学生でした。

大学卒業後は、先述のとおり「なんとなく」の志望として教員の道へ。

臨時採用教員として就職するつもりでした。

ところが、「事務手続き不備」が理由で教員になれず、卒業と同時に「まさかの」フリーターになりました。

それが私にとって、人生で初めて「王道コース」から外れた経験でした。

しかし振り返ってみると、当時のことはとてもよい経験になりました。

様々な価値観をもって生きている方々と出会うことができたからです。

例えば、アルバイト先の同僚に、バイオリン奏者の方がいました。

その方はバイオリンだけでは生活できないからフリーターをしていました。

バイオリンに情熱を持ちながら、仕事もよくでき手を抜かない、素敵な方でした。

また同時期の2012年7月、九州北部豪雨の水害で自宅近所が被害地域となったことから、その災害ボランティアに参加しました。

ボランティアも、フリーターだったからこそ仕事を長期間休め、参加することができました。

そこでも素晴らしい方々、多様な価値観の方々と出会いました。

そうした出会いや経験から、(フリーターについて勝手に持っていたマイナスイメージが払拭されると同時に、)「もっと自由に、やりたいと感じることにまっすぐに生きていいのでは」と価値観を改めるようになりました。

青年海外協力隊へ。「現地人の代わりに働く」のではなく、「協力隊がいなくなってもいい仕組み」をつくりたい


フリーター生活が半年続いた後に、教員として働くチャンスを得て、実際に教員として働き始めました。

ですが、価値観を改めた私には、昔から考えていた「発展途上国でのボランティア」が、改めて、そして現実的な選択肢として浮かび上がっていました。

結果として私は、発展途上国の支援という「自分のやりたいこと」を貫くことにし、青年海外協力隊に応募、合格。

教員の仕事は合格後に退職しました。

以前の私であれば、できなかった決断だったと思います。

そして青年海外協力隊となった私は、太平洋に浮かぶ小さな島々からなるマーシャル諸島という国に、「現地学校の算数教師」として派遣されました。

私が現地マーシャル諸島で求められていたことは、現地の教員の代わりになって働くことでした。

現地の先生たちからは、「協力隊の日本人が働くことで、自分たちは授業を休める」という期待をされていました。

でも私は、そんな仕事に意味はないと思いました。

本当の途上国支援とは、「最終的に日本人(協力隊)がいなくなってもよくなること」だと思っています。

だから私は、そのための「仕組みづくり」がしたいと考えました。

日本人が学校で教えたとしても、30人しか教えられない。

それは「仕組み」ではない…では、どうすればいいのか…。

当時、マーシャル諸島の学校では、アメリカの教科書をそのまま使っていました。

つまり全部英語です。

けれども、マーシャル諸島の人たちは英語がそれほど得意ではありません。

また、カリキュラムもアメリカのものをそのまま使っていました。

けれども、アメリカよりも日本のカリキュラムの方が、マーシャル諸島に合う点もありました。

結果として、私が「仕組みづくり」として考えたことは、「教科書をつくる」ということでした。

そこで、「マーシャル語で、マーシャルの子どもたちに合う教科書をつくれないか」と提案し、現地の教育委員会と協働するようになったのです。

教科書を変えること、そしてその教科書でどのような授業をすればよいのかを現地教員に教えること…その方が、社会にもたらすインパクトが大きいと私は確信していました。

さらに、現地学校の校長先生と連携しながら、学校運営の方法を変えていくことにも携わるようになりました。

とても充実した時間でした。

「ビジネスを通じて支援に携わりたい」という思いからキズキへ


マーシャル諸島での任期を経て、自分の今後のキャリアについて、「引き続き支援に関わりたい」、「社会にインパクトを与える仕事をしたい」、そして「ビジネスの軸を大事にしていきたい」と考えるようになっていました。 

特に「ビジネス」について言えば、寄付金や税金で動いている組織ではなく、自分の力でお金も社会的な価値も生み出している組織の方が、無駄が少ないと考えたのです。

もちろん寄付金も税金も、支援における大切なツールです。

ですが、支援する側としては、「限られた資金」の中で「本当に必要なものを見極めて支援すること」が大事だと思います。

加えて、支援される側としては「受け取るときに本当に必要なのかを考えること」も大事であるように思います。

こうした視点は、寄付金や税金を用いた支援ではおろそかになりがちなのではないか、ということです(もちろん全部が全部ではありませんが)。

例えば、マーシャル諸島でこんな経験がありました。

ある日学校を掃除していたら、すごく昔の、未使用の鉛筆とマーカーを発見したのです。

かつて、寄付でもらったものでした。

その多くはカビが生えて使い物にはなりません。

タダでもらったものだから、「こういうこと」が起こってしまうのかなと思いました。

ビジネスの視点があれば、支援する側・される側ともに、もっと真剣に「本当に必要なもの」が検討されるのではないでしょうか。

さて、青年海外協力隊の任期後の「働く場所」については、最初から日本と決めていたわけではありません。

元々の海外への関心から、「このまま海外で働こうかな…」と迷っていた時期もありました。

けれども、自分の国のことを一生懸命に考えているマーシャルの人たちを見て、
「私は自分の故郷のことをしっかり考えていたのか」
「日本の教育問題から目をそらしていなかったか」
と思い直し、日本の企業で働くことに決めました。

そして日本で就職活動を行ううちに見つけたキズキは、まさに私が考えていたキャリアと合致する理念を持つ会社でした。

日本にも支援を必要としている人がたくさんいるということ、困難を抱えた方への支援がよりよい日本社会をつくる一助になるということ…そんな思いがキズキという会社に出会わせてくれたのかもしれません。

キズキで働くやりがいと苦しみ


キズキで働くやりがいは、2つあります。

1つは、支援を求めている人に直接届く仕事ができることです。

キズキには、いろいろな事情を抱えた子ども・若者、その保護者の方々がいらっしゃいます。

一人ひとりの悩み・苦しみに直接寄り添いながら、仕事ができることはやはり大きなやりがいです。

2つ目は、新しい事業に携わるチャンスがあることです。

2017年現在、キズキは創業6年目の新しい会社であり、その中核事業の「キズキ共育塾」は2016年から多校舎展開を始めました。

私自身は、入社半年で秋葉原校の立ち上げに携わり、その後半年と立たないうちに大阪校の立ち上げを行いました。

今は大阪校の教室長をしていますが、このスピード感はとても楽しいです。

一方で、支援を求めている人に直接届く仕事をしている分、「支援がちゃんと届かなかったとき」にはとても無力感を感じます。

学校で上手くいかず、大手の塾・予備校でも上手くいかなかった方が、「最後の希望」としてキズキに相談にいらっしゃることも多くあります。

だからこそ、なんとか力になりたいと思いますし、それができなかったときの無力感も大きくなります。

入塾しなかった人に対して、
「今どうしているのだろう」
「他の場所は見つかったかな」
と思いを巡らせるときもあります。

入社直後には、生徒さんの保護者さまから「息子がロープを買って部屋に持っていって…」という内容の電話を受けたこともありました。

結局この生徒さんは、キズキに通い続けることができませんでした。

このように後悔は日々尽きないです。

でも日々現場で学ぶことで、一人ひとりに寄り添った支援ができるようになってきました。

そして、その後新規で立ち上げた秋葉原校では、一人で教室を運営することができるようになりました。

応募者へのメッセージ


入社前の私は不登校やひきこもりの方たちへの支援経験がほとんどなく、関連知識も皆無だったことが、とても不安でした。

けれども、そういった支援の技術・ノウハウは、他のスタッフの対応を真似しながら、徐々に身につけることができました。

また、臨床心理学や教育の知識もある程度身につける必要がありますが、それは一番大切なことではありません。

むしろ、千差万別なケースたちに対応できる「柔軟さ」の方が大事です。

採用説明会も定期的に行っていますので、ぜひお気軽にいらしていただければと思っています。


樺浩美・キャリアパス(2017年6月現在)

2016年7月 株式会社キズキ入社。キズキ共育塾代々木校の教室運営業務に従事。
2016年11月 新規開校したキズキ共育塾秋葉原校へ異動、教室運営業務に従事。
2017年5月 キズキ共育塾大阪校開校と同時に、大阪校教室長に着任。